oyabaka essay

小さな恋のメロディー3

 僕たちはゆっくりと家の前の坂を下った。僕は女の子を安心させる為に子犬を抱かせて、少し歩いては家の方を振り向き、それを何度も繰り返した。(もしかすると、僕たちの悲しい背中を見た母が、呼び戻しに来てくれるかも知れない。)そんな微かな期待を抱きながら、僕はゆっくり坂を下った。
 そうこうしている内に、僕と女の子の距離が少しづつ開いて行く。とうとう坂を降りきった曲がり角で、僕は女の子の姿を見失ってしまった。
 きっとここでお別れをするべきだったのかも知れない。お互い名前も知らない一年生。しかし、このままでは後味が悪すぎる。そう思った僕は、「待って、待って」と叫びながら、坂の下の曲がり角へと急いだ。
 女の子は暫く歩いた場所にある、町民館の石段に腰を下ろして、僕が追いつくのを待っていてくれた。僕は女の子の横に座り「ごめん」と、か細い声で謝った。
「母さんは本気じゃないから。鳥は食べるけど、犬とかは食べないから」
そう言っている途中から、涙で景色が揺れ始めた。
女の子は僕の顔を覗き込んで、「もういいよ、分かったから泣かんで」と言った。
僕は咽びながら「違うんよ。母さんは犬は食わんけど、鳥を食べるんよ」と言った。女の子はキョトンとした顔で暫く考えて「鳥は私も食べるよ、鳥、美味しいもんね」と、優しい声で僕を慰めてくれた。

 僕は山鳥のくーちゃんを思い出して泣いていた。父の罠にかかった山鳥のくーちゃんは、僕の親友だった。それを母がクリスマスの夜に丸焼きにしたんだ。まるで七面鳥料理のように、お腹にいっぱい何かを詰め込んで。そうやって、母さんはいつも僕の友達を食べてしまうんだ。きっとこの子犬も・・・。
「いいよ、もう泣かんで。子犬を食べる人なんておるわけないやん」女の子は子犬の頭をなでながらそう言った後、すくっと立ち上がり、
「よし、私の家においでよ」と、力強い声で言った。そして僕たちは、少女の家を目指して歩き始めた。
「でも、犬とかダメなんやろ」
「なんとかする。ダメやけど飼う。家の横にね、大きな倉庫があるんよ。そこなら見つからずに飼えるかも」
そう言って、女の子はまるでドラマのように、握り拳を振り上げた。
「エサとかどうするん?」
「朝ご飯を半分あげる」
「そんな事したら痩せるよ」
「おかわりするもん」女の子はクスリと笑った。
「僕はどうしたらいい」と尋ねると、少女は立ち止まり僕の顔の前に人差し指を立て、もう片方の手を腰に当てて、まるで魔法をかけるようなポーズで言った。
「交代で朝ご飯をあげよう。そして放課後に毎日子犬と一緒に遊ぼうや」

僕は完全に魔法にかかってしまった。少女は僕にとって、親友をことごとく食べる怪獣の元から、僕を救い出してくれた勇敢な魔法使い。姉ちゃんも兄ちゃんも、優しいけど、やっぱりあの怪獣の子供達だ。いつも僕に意地悪な事を言う。でも僕は違う。僕だけが違うんだ。
 保育園の頃に誰かが、「僕はコウノトリに運ばれてきたんだ」と言っていたので、僕も母さんに、「ぼくもコウノトリが運んできたの」と尋ねたら、母さんはこう答えた。
「お前は花見の時に桜の木の股に、はさまっとったんよ」と。
僕は母さんの子供じゃなかったんだ。もしもコウノトリが運んで来たとしても、その夜の夕食は、コウノトリの丸焼きだったに違いない。そんな境遇を見かねた神様が、僕を救い出す為に少女を迎えに寄越してくれたんだ。
踊る心を見透かされないように「犬、抱かせて」と言って、女の子に向かって両手を伸ばした。僕を抱きしめてと言わんばかりに。
「食べるから、やだ」と言って、女の子は頬をプッと膨らませ、おどけて見せた。


本当に今日は色々なことがあった。高いブロック塀と、木造倉庫の間だに隠れている僕の一日は、スリルと冒険と、そして愛に満ちあふれていた。本当はただ、犬を飼うことが出来ないと、お母さんに言われただけの事かも知れないけれど、僕の手の中には小さな子犬がいて、鬼ごっこの時にしか人が入らないような場所で、溝に足をつっこんで靴に水を染み込ませながら、天使のような女の子を待っている。これは愛なんだ。初めての事でよく分からないけれど、きっと愛に違いない。そう確信していた。
 天使のような女の子は髪が長く、きっと休日はワンピースを着て、丘の上でヒナゲシの花を手にして、恋占いをしている姿が良く似合いそうな少女だった。それはまるでアグネスのようで、きっと都会からやって来たに違いない。
 「ごめんね。もう出てきていいよ」女の子の声がした。靴は完全に浸水している。
「いい、私の後ろに隠れてついてきてね」と言って、女の子はゆっくり振り向いたと思うと、突然走り出した。僕のアグネスはこんな所がある。
「はやく、こっちこっち」と言って、アグネスは倉庫のドアの隙間から僕を手招きした。僕は慌てて走った。すると靴の中の水がグチュグチュグチュッと大きな音をたてた。構わず走り、倉庫の中へと飛び込んだ。
アグネスは目をキラキラさせて、
「あかちゃんみたいな靴を履いてるね」と少し笑って見せた。

倉庫の中は意外と明るかった。ドラム缶、自転車、見たことの無い機械もあり、とても油くさかった。アグネスは奥から段ボールを引っ張り出して、その中に古新聞を敷き詰めて、子犬の寝床を作った。
そしてアグネスはドラム缶にひょいと乗っかり、両膝を抱えてにっこり笑った。白いパンツが丸見えだった。
「明日の朝は、どっちがご飯をあげようか?」アグネスは体をゆらしながらそう言った。
「子犬って何あげたらええんかね」と、僕が聞くと、アグネスは「パンとミルクやろう」と答えた。
「ぼくんちは、朝は味噌汁とごはんなんよ。どうしょうか。あっ、バナナがある」
「え〜っ、バナナは猿しか食べんよ」
「お母さんが大好きで、バナナは何時も絶対にあるんよ」
「そうなん、ゴメンね。お母さんのこと猿って言って」
 アグネスと僕のお母さんは、早くも犬猿の仲になっていた。
 二人は随分長い間そこにいて、色々な話をした。家族のこと、先生のこと、友達のことを沢山話した。とは言っても、アグネスの話が殆どだった。やがて遠くからアグネスを呼ぶお母さんの声がして、僕たちは明日の朝、ここで会う約束をして倉庫を出た。よくよく考えると、子犬の話をしたのは、前半のほんの少しだけだった。外は黄色く、陽は暮れようとしていた。

 僕は家へと戻る道を走った。相変わらず靴からはグチュグチュと音がする。家へと続く坂道を一気に駈け上がり玄関に辿り着いた。僕は何時もの何でもない一日の終わりのように玄関を開けて「ただいまー」と叫んだ。
奥から「お帰り〜、早う手を洗っておいで〜」と、いつものお母さんの声が返って来た。僕は靴を脱ぎ捨て、廊下の奥の洗面所へと走った。

「こらぁぁぁぁぁぁ」予期せぬお母さんの叫び声に振り向くと、お母さんは廊下の真ん中に立って僕に背中を向けて立っていた。そしてゆっくり振り向いた。
僕はおどおどしながら
「子犬・・捨ててきたっちゃ」と言うと、お母さんは、「あんた何処で遊んで来たんかね。そこの雑巾で、廊下を拭きなさい」と言って、手に持っていたお玉を高く上げた。

廊下にはくっきりと、真っ黒な足跡がついていた。

つづく

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