oyabaka essay

走って来い

 中学三学年の7月の朝、僕たち4人が部室の前に集合したのは、朝日が昇るまでにはまだ随分と時間がある午前3時だった。集まった理由は、バスケ部の監督、アチョーに「試合会場まで走って来い」と言われたからだ。市内大会なら走り慣れていたが、今回だけは流石に自分の耳を疑った。アチョーが言う「走ってこい」の目的地は、車で一時間半以上はかかる、県大会会場を示していたのだ。
「試合は十時からだから、それまでに着けよ」と言いながら、アチョーは小さなメモ用紙をひらりと投げた。拾い上げたメモには、会場までの地図が、たった二本の線で描かれていた。「その分かれ道を間違えたら、永遠に走ることになるぞ」と言ってニヤリと笑った。
 目的地は宇部工業体育館。下関の端っこの彦島から、山陽小野田市を通り過ぎて、宇部市の端っこまで走って行き、到着してそのままコートに立ち、興南中学と激戦を交わした僕たちは、後に伝説として語り継がれることになるが、伝説の主役は僕等ではなく、走らせたアチョーの方だった。
 3年はここに居る4人と、キャプテンのテツを含めて5人しか居ない。1年の頃は二十人以上は居たような気がするが、殆どが2年になる前に辞めてしまった。1・2年とテツは学校が用意した大型バスで、他の競技の選手たちと同乗して会場に向かう。僕たち4人は、試合が始まる十時までには着くようにとアチョーに言われていたので、各市2時間というどんぶり勘定で、出発を4時に決めた。メンバーは大作と喜八、そして僕とチーの4人。走り始めてすぐに大作が「6時頃には下関を出てないとまずいぞ、今何時?」と言った。喜八が「チー、何時?」と言った。チーは「知らんよ、センダに聞きいや」と言った。センダはバスケ部の中だけで呼ばれている僕の渾名だった。チーの言葉で、誰も時計を持っていないことに気がついた。「とりあえず、陽がのぼる頃には下関を出ようぜ」と喜八が言った。
 リーダーシップはいつも喜八がとる。喜八は「喜八へのパス禁止」とアチョーから指示が出るほどバスケが下手だった。試合中に何度か間違えてパスをしてしまい、アチョーにビンタされる度に、「なんで喜八がレギュラーなんだろう」と思った。敵にパスカットされるよりも、喜八へパスの方が怒られた。喜八とは長い付き合いで、小学校のサッカーチームでもチームメイトだった。喜八はサイドバックだったが、キーパーに返すボールを思いっきり蹴って、何度オンゴールをしたことか。喜八が返す矢のようなボールに、横っ飛びでも防げなかったゴールキーパーーが、今一緒に走っているチーだった。チーは「女にモテたいから」という理由で2年の夏頃にバスケ部に入って来た。そんな動機で入部した奴が耐えれるはずがないと踏んでいたが、チーはその動機のまま最後までバスケ部を辞めなかった。
 大作はパスをポロポロ落とすセンターだ。アチョーから僕に「大作には手渡しでパスをしろ」という指示が出ていた。ゴール下でボールが渡せれば、大作は確実にシュートを決めてくれたが、ボールを渡すのがとても面倒くさかった。大作はアチョーからあまり叱られない。アチョーは打たれ弱い奴に優しかったように思う。残念なことに、3年で最も打たれ強いのは僕だった。
 ポイントゲッターはキャプテンのテツ。文武両道で絵に描いたような男で、国体選手に選ばれるほどバスケが上手かった。テツは下級生たちと一緒に、バスで会場に入る。僕達4人が走るはめになったのは、そもそもテツのせいだったのに。

 僕達4人は会話もせずに黙々と走り続けた。彦島を抜け出すには2本の長いトンネルを抜けなくてはならない。トンネルの歩道はやけに狭く、僕達は一列に列んで走った。二本目のトンネルを抜ける頃には、空が薄っすら白みはじめていた。ここから唐戸まで真っ直ぐ走って、左に曲がり2号線をひた走る。長府駅付近までは止まらずに走れたが、喜八の「後どれくらいやろか」と言う問掛けに、全員が足を止めた。僕はアチョーに渡された地図をポケットから取り出し、道路が二本しかない地図を見て、「これじゃ分からん」と呟いてポケットに戻した。「近道とか無いんやろか」と、喜八が言い出した。「迷子になったら大変やぞ」と大作が言った。喜八が「ちょっと俺、あのおじさんに道を聞いてくる。近道があるかも知れんし」と言って、畑仕事をしているおじさんの所へ走った。暫くして喜八が戻ってきた。「近道は無いみたい。ひたすら真っ直ぐだって。宇部空港まではもうすぐらしいぞ。あと三十分くらいだって」と言った。 僕達は土地勘が全くない。後から気がついたのだが、おじさんは僕達が車で移動していると思ったようで、車で三十分という意味だったのだろうけど、小月辺りで尋ねたから、実際は車でも一時間はかかる場所だった。「もうすぐだ」と思いながら、走っても走ってもゴールに着かない。道を尋ねたせいでキツさが何倍にも増してしまった。道を尋ねて一時間ほど経った頃、チーが壊れた。一番後ろを走っていたチーが「あわぁぁぁぁぁぁ」と叫びながら全員を抜かして通りすぎた。そして百メートルほど先で顔に両手をあててうずくまった。「チー、大丈夫か?」と大作が言うと、チーはうずくまったまま、肩を震わせて泣きながら「出た・・出た」と言った。僕は「何?ウンチ?」と聞くとチーは小高い丘の方を指して、「死んだバーちゃんが彼処におった」と答えた。暫く沈黙が続いた。沈黙を破って喜八が「うそやろぉぉぉぉぉ」と叫びながら走りだした。それを追い掛けるように大作も叫びながら走った。僕もその後を「うひょぉぉぉぉぉぉ」と大笑いをしながら走った。丁度その時、選手達を乗せた、県大会会場へ向かうバスが僕達を追い越した。バレー部キャプテンのタツが、窓から身を乗り出して手を降っていた。タツは「すげーぞあいつら、全速力で走りよるぞー、がんばれよ~」とバスの中から叫んだ。僕は背伸びをして両手を振って声援に応えた。チーのお陰で、なんとか格好がつけられた。振り向くとチーは小高い丘に向かって合掌をしていた。僕は「分かったから早く来いよ」と笑いながら言った。走り始めて四時間、僕達は山陽小野田市まで来ていた。
 思えばあの時、テツの「みんなで辞めようぜ」の一言が始まりだった。ポンコツ選手の僕達は、前年度全国制覇という重いプレッシャーの中、アチョーの鬼のような指導に耐えていた。TV局の取材が来る中、体育館の鍵をしめて練習をしていた。シゴイても一向に上達しない僕達に、アチョーが業を煮やして「お前らとは付き合っておれんわ!やめてしまえ!」と一言残して、体育館を出て行ったのだ。呆然と立ち尽くす僕達に、キャプテンのテツがあの一言を呟いた。悪いのはテツじゃない。「みんなで辞めようぜ」と言った瞬間、その場に居た全員の顔がパッと明るくなった。きっと「その手があったか!」と、全員が思ったに違いない。こういう時のチームワークは一流だった。それから僕達のボイコットは、一ヶ月近く続いた。学校の先生方や友人、そして親に、バスケ部に戻るようにと、何度も説得されたが、僕達の決意は固かった。そんな中、「せんだ、わし、やっぱ戻るけん」と、テツから電話があった。実は僕もその時、そろそろ限界かなと感じていた。地獄の日々に戻る怖さよりも、バスケがしたいという気持ちの方が勝ってきていたのだ。

 早朝5時に学校を出発して、5時間ほど経った頃、僕達は宇部市の手前まで走っていた。予定ではすでに試合会場へ到着している時間だったが、出発して3時間ほど経った頃から、走る気力を失ってしまい、全員が落ち武者のように足を引きずりながら項垂れて歩いていた。もう随分と長い間、僕たちは会話を交わしていなかった。先頭を歩く大作だけが、ニワトリのさえずりの様な鼻歌を歌っていた。時折「こどもだけで校区外に出るのは校則違反だぞー」と、暇つぶしのように喜八が叫んだ。そしてまた沈黙が続いた。
 もしも誰かが「バスに乗ろうぜ」と言い出したら、きっとそうしたと思う。あの時テツが、「やめようぜ」と言った時のように。でも、「どこかできっとアチョーが見ているに違いない。どんなに厳しいと言っても、生徒だけで三市を横断させるはずがない」と、そう思っていた。アチョーはいつか見かねて「もう分かったから、車に乗れ」と言いながら、姿をあらわすに違いない。そう期待していた。しかし、アチョーは本物の鬼だった。僕たち4人の落ち武者は、学校を出て8時間後の午後1時に、試合会場である宇部工業高等学校の門をくぐった。
 宇部工業の門をくぐると、ライバル校の文洋中のレギュラー達が、木陰に座って雑談をしていた。僕たちの姿を見た文洋のキャプテンが、「彦島さん、死にそうな顔しとるけど、アップのしすぎやないの?」と、冗談を投げかけてきた。文洋のレギュラーはイケメン揃いで、キャプテンのメガネは伊達だった。彦島とは正反対で、彼らはバスケをフアッションのように楽しんでいた。そして何よりも違っていたのは、監督が優しいという点だ。僕は格好をつけて「アップがてら、彦島から走って来たんだよ!」と、文洋の連中に向かって言った。文洋のキャプテンは「いやそれ、頭やおかしいって」と言って目を丸くした。
 体育館の入り口に、二年の高村が立っているのが見えた。高村は僕たちの姿を見つけると走り寄ってきて、「先輩、遅いっすよ!アチョーがイライラしてますよ」と叫んだ。そして「早く着替えてください。次の試合、十分後です」と言ったので、今度は僕が「いやそれ、頭おかしいやろ!」と叫んだ。「アチョーの指示です。急いでください。1試合目2試合目は、テツさんの頑張りでなんとか勝ち進みましたが、次の相手は興南ですから」と、高村は戦況を報告した。チーは試合に出ない。喜八は出ても何もしない。僕は大作を見て「大丈夫か?」と聞いた。大作の目は死んだニワトリの目をしていた。そして小さな声で「やれって言われたんなら、やるしかないやろ」と答えた。
 とにかく僕たちはユニホームに着替えた。気休めにクリーム状の鎮痛剤、ラブを全身に塗りまくった。喜八が「お前、試合に出んやろ」と、顔にまでラブを塗っているチーに向かって言った。
 全身ラブで真っ白になった男たちが、アチョーの前に整列した。アチョーは「十分温まっとるやろう。折角走って来たんだ、試合に出たいやろう。力の限り闘ってこい」と言った。僕たちに力なんか残っていなかった。対戦相手の興南中の先生が「せんだの目、死んでますやん。先生、うちは二軍をだしますから、休ませてやったらどうですか」と助け船を出してくれが、アチョーは「いや、こいつらは試合がしたくて走って来たんだから、そっちもベストメンバーを出してよ」と言って、好意を断った。
 審判が試合開始のホイッスルを吹いた。キャプテンのテツを先頭に、全身真っ白な男たちが、センターラインを挟んで対戦相手を睨みつけていた。それは玉砕を覚悟した表情だった。
前を見据えてテツが「俺にまかせろ」と言った。
僕は前を見据えたまま「当たり前じゃ」と返した。

 一九七九年、中学バスケットボール全国大会で日本一に輝いた、彦島中学校バスケ部。その翌年の新チームは、周りの期待を大きく裏切る戦績しか残せなかった。しかし、数十年経った現在でも、僕達の伝説は語り継がれていて、彦中バスケ部と言えば「日本一になった」という伝説は二番目で、まず「彦島から宇部まで走って試合に行った、あのチーム」が先に出る。そこには何の感動の秘話もなく、ただ走っただけの事なのに、何故ここまで語りつがれるかは、謎である。
この物語の語り部は、県大会のベンチで声を張り上げて応援していた、一・二年生達だった。今でも後輩と会うと、あの時の出来事を腹を抱えて笑いながら話す。そして僕達が忘れている様な事も、後輩は鮮明に覚えている。
「いや、ホントびっくりしましたよ。来るわけないと思ってたら、本当に走って来ちゃったから。すごいと思うよりも先に、アタマは大丈夫かって心配しましたよ。」
「だって走って来いって言われたから」
「先輩、それは多分、来なくていいって事だったと思いますよ。」
「うそ、マジで?」
「マジですよ、その証拠にあの時アチョーが僕達二年生の前で、あいつら来やがったって言ったんですよ。知ってました?」
確かに、あの時おかしいと思ったんだ。中学3年生が、生徒だけで校区外を引率なしで走ることが許されることなのかと。
一歩譲って「僕達が勝手に走った」としよう。しかし納得行かないのは、約七十キロの道のりを走って県大会会場に到着した後に、5分も休まずにすぐに試合に出されたことだ。
 アチョーは「せっかく来たんだから、試合に出してやる」と言ったが、あの時「出れるか?」と僕達を気遣ってくれていたら、「出れません」とハッキリ言っていたと思う。
「早く支度をしろ」と言われて、僕達は慌ててユニフォームに着替えて、全身に筋肉鎮痛剤のラブを塗りたくり、顔にまで塗ってコートに立った。日に焼けて赤黒くなった肌の上に、白いラブを塗りたくったものだから、全身ピンク色になってしまい、黒子のバスケで例えると、僕は桃峰だ。黒子は、「試合中は居ないものと思ってパスをするな」とアチョーに言われている喜八。喜八はコートの中で完全に存在を消し去っていた。試合が始まり暫くしてから、僕は体に異変を感じた。70キロを走破した直後に試合へと挑んだせいか、「まだゴールしてないぞ、ラストスパートだぞ」と脳が判断したようで、背中に羽が生えたような感覚になり、どんどん体が軽くなっていくのを感じた。 僕は何時もよりアタマが冴えていて、興南のガードの動きがスローモーションのように見えた。僕の動きを見て、ベンチからアチョーの声が響いた「よし、ゾーンプレスに切り替えろ!」。考えるよりも先に体がその声に反応していた。前を守る二人の戦士が、興南のガードに襲いかかり挟んだ。ガードが「まじか!」と言って、堪らずセンターにパスを入れた。すかさず大作とテツがセンターを挟んだ。興南のセンターの背は百八十センチを超えていた。後に全日本選手に選ばれるほどの選手だったが、大作とテツの圧力に圧されて、ゴールを狙えない。ガードにボールを戻そうにもそこには桃峰が張り付いていた。試合の主導権はこっちが握っていた。思うようにさせてたまるか。「俺達に穴はない!」そう思った瞬間、コーナーで待機していたシューターにパスが渡った。その時コートの中の全員が叫んだ。ベンチで監督が叫んだ。応援する後輩たち全員が叫んだ。
「きはちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」。
 確率80%を誇る興南のシューターの前に、黒子の喜八が立っていた。喜八はその叫び声に反応して「何?呼んだ?」と、振り向いて言った。シューターから背けた顔は、ピンク色だった。
 結果は好戦虚しく、三点差で負けた。走って来てなかったら勝てたかもと後輩たちは言ってくれたが、それは違うと思う。あのとき喜八が振り向かなかったら、勝てたかも知れない。

end


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